都会に足を運んだ際、無意識のうちに「レトロな喫茶店」というワードが脳内検索に引っかかるようになってしまった。
誰に言われたわけでもないのに、「せっかくだし」の精神が律儀に芽を出す。
育てた覚えはないのに。
駅を出て、人の流れに身を任せる。
スマホで目的地を確認した。
星の数とレビューの熱量に軽くビビりながら小道を曲がる。
するとそれっぽい店が静かに佇んでいる。
平日の午後だというのに、すでに扉の前には列ができていた。
こういう店は総じて狭くて、古くて、静かだ。
そしてなぜかそういう場所に人が吸い寄せられている。
不思議な光景だけれど俺もその一人なので何も言えない。
順番が来てようやく席に通される。
くたびれたソファに沈む。
歴史を感じる──というよりただの老朽化かもしれない。
メニューを開く。
どれもこれも妙に魅力的だ。
ネットで下調べして決めてきたはずなのに、現物を見ると全部うまそうに見えてしまう。
迷っていると「観光で来ました」感がにじんでしまいそうで、それがちょっとだけ恥ずかしい。
なぜなら俺は「常連っぽく」見られたいのだ。
料理が届く。
隣の席では先にナポリタンを受け取った客が撮影タイムに入っている。
角度を変え、影を気にし、友人と写真を見せ合っている。
俺はというと、何食わぬ顔でフォークを手に取る。
スマホは出さない。
黙って一口目を運ぶ。
それだけで「馴染んでる人」っぽく見える……はずだ。
だが、内心ではけっこう浮かれている。
コーヒーの香りに気分が少し上がり、ナポリタンのケチャップの艶に思わず頷いてしまう。
そして、最後にやってきたホットケーキ。
バターとメープルシロップがじんわり染み込んだ焼き目を見て、心の中で「あ、YouTubeで見たやつだ」とつぶやく。
見た目は地味。
でも心のなかでは拍手喝采だ。
たぶん、こういうのは全部バレている。
おそらく俺は「遠方から来た人」に見えているだろう。
あるいは「純喫茶文化に憧れる田舎者」かもしれない。
でも、ここに来てちゃんと料理を味わっている時点で、目的の大半は果たされている。
恥じることなど何もない。
老舗の喫茶店というのは味や雰囲気だけでなく、そこに身を置くことで始まる、ちょっとだけ演出の入った自分になれる時間を売っているのだと思う。
誰にも注目されていないのに、自分だけが物語の真ん中にいるような気がしてしまう。
まるでジム・ジャームッシュの映画に紛れ込んだ登場人物みたいに。
今日もまた「常連気取りの遠征者」というキャラで一杯のコーヒーに拍手を送る。
気取って飲んでも、浮かれて飲んでも、どちらでもうまい。
喫茶店は、そういう場所だ。
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