味覇の支配

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俺は一つの教義に従っていた。それは「味覇さえあればすべての料理は救われる」という至言のような信念だ。自分はこの赤い缶だけを信じていた。味覇。うぇいぱー。俺にとって神々の贈り物であり、孤独な夜に輝きをもたらす灯火のような存在だった。

しかし、その過剰な信仰が、時に俺を悩ませた。味覇を入れると、たしかに料理は美味しくなる。鼻が喜び、舌が踊る。けれど、その瞬間にある疑問が頭をもたげる。これは本当に自分の料理なのか? そもそも料理と呼べるのか? いや、もしかすると、俺はただ“味覇を摂取しているだけ”なのかもしれない。

そう思い始めると、何もかもが怪しくなってくる。キャベツ炒めも、スープも、ラーメンも、すべてが味覇の手のひらの上で踊らされているだけのような気がしてきた。

試しに、味覇を使わずにチャーハンを作ってみた。ご飯、卵、ネギ、ウインナー。塩、胡椒、醤油で味を整える。火加減に気を遣いながら丁寧に炒める。だが完成したそれは、具材たちがそれぞれ別の方角を向いて立っているような仕上がりで、まとまりがなかった。とても悲しかった。

味覇はたしかに強烈な支配力を持つ存在だった。だが、それがなければ自分の料理は無秩序に陥り、統率を失う。強権か混乱か。料理という小さな世界の中で、俺は不安定な均衡を前に立ちすくんでいた。

やはり味覇なしでは駄目なのか?

結局のところ、自分は味覇の支配を受け入れることにした。だが完全な服従ではない。調味料としての一線は越えさせない。支配されつつも共存する関係。それが今の俺と味覇の距離感だ。時折、独立を夢見て塩と醤油だけで勝負することもある。しかし多くの場合、最後は赤い缶に手を伸ばす。その行為に罪悪感はなくなった。

料理とは何かという問いに、明確な答えはまだない。ただ、味覇の手のひらで踊りながらも、自分なりの足取りを刻むことはできる。それもまた一つの料理人生なのだろう。

そんな結論に達した数日後、買い物に行った俺は白い缶を見つけた。「創味シャンタン」と書かれたそれは、味覇とは別の支配者だった。思わずそれをカゴに入れながら、ふと思った。

「……別に、俺、料理人じゃないしな」

その日、創味シャンタンで作ったチャーハンは――やっぱり美味かった。

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