りんごになりたがった人間

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七夕の短冊は、人間の欲望を剥き出しにする装置だ。
「仮面ライダーになりたい」とか「プリキュアになりたい」とか。
そういうのは、願いというよりも、どこか別の存在に変わりたいという衝動に近い。
大人になるとそれが、「健康診断で引っかかりませんように」とか「上司がずっと上機嫌でありますように」とかになる。
角が取れるというより、磨耗して小さくなっただけなのかもしれない。

これは自分がまだ園児だったときの話。
七夕イベントで短冊を書かされた。
笹は先生が用意していた。誰かがどこかの山から調達してきたのかもしれないし、ホームセンターで買ってきたのかもしれない。
ともかく、園児たちがせっせと願いを吊るすにふさわしい、申し分のない笹だった。
あの年、自分が何を願ったのかは、もう思い出せない。
たぶん、「ポケモンマスターになりたい」とか、そんな類のことだったのだろう。

だが、今でも鮮明に覚えている短冊がある。
自分より下の年の組の子が書いたものだった。
そこには、たった一言、こう記されていた。

「りんごになりたい」

……りんご農家でもなく、りんごをたくさん食べたいでもない。
ただ「りんごになりたい」。
人間をやめる気である。
アップルパイ、タルトタタン、りんごジャム。
食材としてファンが多い果実ではあるが、「なりたい対象」として選ばれがちな存在ではない。

今考えると、彼はアダムとイブが食べたあの禁断の果実――つまり“知恵の実”としてのりんごになりたかったのではないか。
世界の均衡を崩し、人類史を動かした象徴としての存在。
欲望を呼び起こし、理性を試すもの。
もし彼がそこまで見据えていたのだとしたら、ただ者ではない。

……いや、きっとそうじゃない。
きっと、給食で出たりんごが妙においしかった。
ただそれだけだ。

それからというもの、彼の姿を見るたびに「こいつ、いまどれくらいりんごに近づいてるんだろうな」と思ってしまうようになった。
そして、ふと思う。
もしも彼がそのまま「りんご」への道をまっすぐに進み続けていたら、どんな人生を歩むことになるのだろうか。
皮を赤く染め、表面にうっすらと艶をまとい、冷蔵庫に保存され、ナイフでふたつに切られる。
そして芯だけが残る。
彼はその運命を、甘んじて受け入れるだろうか。
あるいは、途中で「これはちょっとおかしいぞ」と気づくのだろうか。

大人になると、願いごとというのは「現実的なものにしよう」とか「叶いそうなラインで」といった自意識に覆われていく。
だが、本来、願いなんてものは、そういう「なれるわけないだろ」というもののためにあるのではないか。
無謀だからこそ、願う価値がある。

「りんごになりたい」と書いた彼は、今どうしているだろう。
人間のままでいるだろうか。
それとも、赤く丸く、静かに果実としての人生を歩んでいるのだろうか。
そんなことを考えながらスーパーにいた。
店内は特に変わった様子もなく、いつも通り果物売り場にりんごが並んでいる。
値段の上に書かれた品種名に見覚えのある名前が紛れていないか、つい探してしまった。

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