ケチャップの記憶

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夕暮れ時。さほど腹が減っていたわけでもないのに、気づけばハンバーガーチェーンの店内にいた。

セットがお得だったので反射的に注文していた。
ポテト、コーラ、そして紙包みにくるまれたハンバーガー。
包みをめくる瞬間、ほんの少しのときめきがある。
何の変哲もないジャンクフードであることは百も承知なのに、どこかで「今日のやつは当たりかもしれない」と思ってしまう。

席に着いてモグモグしていると、店内では客がぽつりぽつりと席を埋めていく。
大声で騒ぐ者もなく、かといって静寂に支配されるわけでもない。
ただ、どこか宙ぶらりんな時間の断片がそこにあった。

食後、電車に乗り、最寄り駅で降りてトイレに立ち寄った。
手を洗っているとき、鏡越しに、異変に気がついた

──ケチャップが、顔についている。

場所は左の頬骨あたり。
なぜそこに?
口元から見ても明らかに飛び地であり、重力を無視した軌道を通らなければ到達できない高度である。

非ニュートン流体であるケチャップの剪断粘度や飛翔時の粘着挙動を思い浮かべつつ、なんとなく指でなぞってみる。
ぬるい。
まぎれもなくケチャップだ。
夢であってほしかったが、現実だった。

もしこれが物語ならこれは伏線だったかもしれない。
転機だとか、運命の暗示だとか。
でも現実は違う。
美味しかった副産物が、顔面に付着しただけの話だ。

いや、ついた理由はもはやどうでもいい。

問題は――その状態で他人の目に晒されていた、という事実である。

店を出て、駅まで歩き、改札を通り、電車に乗った。
少なくとも何人かは俺の顔を見ただろう。赤い点を視界に捉え、思考したはずだ。

なぜ、顔にケチャップをつけているのか?
気づいていないのか?
いや、あえてか?
あるいは、奇抜な主張か、ゆるい革命か?

それが何であれ、無反応では済まなかっただろう。
なにせ、顔にケチャップをつけた男が、無言でそこにいるのだ。
むしろ何も感じなかったとしたら、それはそれで恐ろしい。

その日、俺は「ケチャップのついた誰か」として、しばらくの間この世界に存在していた。
そして今、何もなかったかのように歩いている。
ケチャップは拭われ、人々の記憶からも、おそらく俺の姿は消えている。

でも、俺は覚えている。

これが記憶という装置の不公平なところだ。
なぜか恥は、長持ちする。

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