俺はコンビニのレジ袋をじっと見つめていた。
特別なことがあったわけではない。
ただ手に持ったその透明な袋が、妙に存在感を放っていたのだ。
どうしてかというと、その袋は微妙に破れていた。
まるで「がんばったけど、無理だった」と、敗北を認める戦士のように感じられたのだ。
袋の中には、ペットボトルのお茶とおにぎり、そして割り箸が入っていた。
即席で満たされる胃袋と、それに寄り添う便利さ。
いわば、現代社会の象徴のような光景だろう。
しかし、破れた袋を見ると、便利さが決して完璧でないことを思い知らされる。
俺はふと思った。
もしもこの破れかけた袋がもっと頑丈だったら、もっと幸せになれるのだろうか?
そもそも幸福とは何なのか。この問いは、コンビニの袋から始まったに過ぎない。
だが、人類は古代からこの答えを探し続けている。
アリストテレスは「幸福とは徳の実現である」と言ったらしい。
袋の徳が「破けず中身を目的地に運ぶこと」であるなら、破けた袋を持ちおにぎりが食べたい人間の徳は「袋の中身を落とさず目的地に運ぶこと」になるのか。
そんなことを訳のわからないことを考えながら、穴が広がらないように破れた袋の端を手で押さえて家路についた。
破れかけた袋一つで思索が広がってしまうのだから、人間の頭はややこしい。
家に帰ると、袋の中身を取り出して机に置いた。
そして、破れた袋をゴミ箱に捨てながら思った。
便利というのは、結局「何も考えなくていい」という状態を指すのかもしれない、と。
もし世の中のすべてが完璧で、袋が絶対に破れず、電子決済が一瞬で終わり、道に迷うことすらなくなっても、人間はどこかで文句を言う。
幸福は、便利さの先にあるものではなく、むしろ少しの不便があるからこそ見えてくるのかもしれない。
便利さと幸福についての明確な答えは出なかったが、少なくともその夜はおにぎりが美味しかった。
それだけで十分だった。
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