缶コーヒーを開ける

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夜のコンビニの冷蔵ケースの前で、どの缶コーヒーを買うか三分以上迷ってしまうような人間は、大体において人生の大事な場面でも似たような迷い方をするものだと思う。
微糖にするかブラックにするか、それともこの際ミルクたっぷりの甘いやつにしてしまうか。
その程度の選択ができないやつに、未来なんて決められるはずもない。

結局、適当に手に取った微糖の缶を持ってレジに向かう。
大したこだわりもないのに、何かを選んでいるという自覚だけがやたらと重くのしかかる。
人生には決断がつきものだというが、そもそも本当にそうなのか? 
考えてみれば、これまでの人生で自分が選んだと思っていることの大半は、環境や流れに押し流されて決まったことのような気がする。
例えば学校も、仕事も、人付き合いも。

それでも人は「自分の人生は自分で決めるべきだ」とか「選択こそが生きる意味だ」とか言う。
立派なことを言う割には、昼間のオフィスでは誰もが同じような服を着て、似たような顔をして働いている。
選択の自由があるように見えて、実はそんなもの大してないんじゃないかと思うことがある。

コンビニを出ると、夜風が少し肌寒い。
自販機の前で缶コーヒーのプルタブを開けながら、ふと「結局、何かを決めるという行為自体が幻想なんじゃないか」と考える。
たとえば、あのとき違う選択をしていたらどうなっていただろう、という類の妄想がよくあるが、実際にはその「違う選択」をする人間にはなれなかったのだ。
選ばなかった人生は最初から存在しないも同然で、俺はただ「選んだように見えて、選ばされた道」を歩いているだけなのかもしれない。

そんなことを考えながら缶コーヒーをひと口飲む。
案の定、微妙に甘すぎる。
これならブラックにしておけばよかったかもしれない。
だけどブラックにしていたとしても「やっぱり微糖にしておけばよかったか」と考えたに違いない。
そんなものだ。
結局、俺はどの道を選んでも、選ばなかった道のことを考えながら生きていく。

それでもまあ、人生は続くし、夜は更けるし、缶コーヒーは減っていく。
正しい選択かどうかなんて、結局のところ誰にもわからない。
ただ、選ばなかった道をぼんやり思いながら、今いる場所で缶コーヒーを飲む。
それでいいのかもしれない。静かな夜の中で、缶コーヒーの甘さだけがぼんやりと残る。

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