深夜、俺は酒を買いに行く。
目的は純化されている。
「酔う」という一点に向け、俺の意志は一切の雑味なく結晶している。
通常、意志の純化とは、高邁な目標に対してのみ称賛を許される行為だ。
しかし、純化された意志それ自体には、目標の貴賎を判別する機能など備わっていない。
泥のように眠りたいという切実な欠落に向け、最短距離で研ぎ澄まされた刃。
それは構造において、真理を希求する哲学者のそれと等価である。
冷蔵ケースから、人工的な銀色の光を放つ九パーセントの液体を、無造作にかごへ放り込む。
つまみの棚の前で一瞬、立ち止まる。
生ハム、燻製チーズ、あるいはサーモン。
これらは「文化的な生活を送る俺」という虚構の正命題だ。
対して、かごの中の銀色の缶は、生存の体裁に対する冷ややかな拒絶として屹立している。
この矛盾の止揚として、俺は駄菓子コーナーへ向かう。
数十円の小袋は、文化的体裁への渇望も、それへの拒絶も、どちらも最初から相手にしていない。 虚飾という遠回りを経ることなく、欲望が欲望のまま棚に陳列されている。
これは妥協ではなく、より根源的な地点への回帰だ。
このとき、世俗的な「尊厳」などは、はじめから問いに値しない。
コンビニとは、欲望の即時現前化を可能にする装置だ。
そこでは人間の内的状態が、商品選択という行為を通じて直ちに外部へと翻訳される。
いわば、かごの中身は魂の断面図だ。
銀色の缶と、指先で潰れそうな駄菓子が数個。
しめて、二百数十円。
レジに並ぶ瞬間、奇妙な羞恥が首をもたげる。
それらは、レジの台上に「今夜の俺そのもの」として並べられる。
店員は機械的にバーコードを読み取るが、彼の指先が缶の冷たさに触れると、俺の頭の中でナレーションが流れる。
「ああ、ストロング缶に駄菓子か。これで何を忘れようとしているのか」
断罪でも同情でもない。
ただの、無機質な分類だ。
深夜の店員に客を査定する余裕などないことは承知している。
俺は彼にとって、「二百円分の作業を発生させる記号」に過ぎない。
だが、ケチ臭い買い物内容から、こちらの生活水準が透視される感覚。
安価な快楽に依存する自分への、逃れようのない罪悪感。
他者の視線を想定した瞬間に、俺の「純粋な意志」がぐらりと揺らぐこと。
その事実にこそ病理がある。
羞恥とは、自己の内側から湧き出すものではない。
他者という鏡に映されてはじめて発生する、外来の感染症だ。
俺はレジ袋に、安価な幸福といくばくかの恥辱を詰めて店を出る。
街灯の下、缶が揺れるたび乾いた音がする。
純化された意志は、今夜も過不足なく機能した。

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