北大路魯山人は、おそらくファミチキを食べない。
この思いつきは、俺がファミマのイートインで油にまみれた肉を見つめていた時に生まれたものだ。
「おそらく」という言葉が妙に引っかかる。
本当に「おそらく」なのか?それとも「絶対に」なのか?
魯山人が現代に蘇り、ファミリーマートの自動ドアを堂々とくぐる。
そんな場面を勝手に想像してみる。
陶芸の巨匠であり、美食家として知られた彼が、LEDの冷たい光の下、レジに並び、「ファミチキください」と言う。
なんとも想像しがたい光景である。
けれど、考えてみれば魯山人も人間だ。
腹が減った夜、細かいことを考えず何かを食べたくなることぐらいあっただろう。
「いらっしゃいませー」
店員の声で思考が途切れた。
ファミチキの熱が袋越しにじんわりと掌に広がる。
封を切っただけでまだ食べていないことを思い出す。
俺はそのまま無言でかぶりついた。
魯山人は「美味いものには栄養がある」と言ったらしい。
ならば、当然ファミチキにも栄養はあるのだ。
衣をまとい、油に輝くこの茶色い塊には、現代の生命のエキスが詰まっている。
魯山人のおかげで、どこか罪悪感のあったこの揚げ物を、俺は堂々と、誇らしげに咀嚼することができた。
「魯山人さん、私らだって分かってますよ。たまには気を抜きたいときだってありますよね」
結局のところ、魯山人がファミチキを食べないのは「おそらく」ではなく「絶対に」なのだろう。
だが、それを証明することは永遠にできない。
魯山人はすでにこの世にいないのだから。
食べ終わり、袋がテーブルに残る。
俺はその袋をくしゃりと丸め、ゴミ箱に向かって放り投げた。
口の中に薄く残る満足感が、魯山人とファミチキの関係をどうでもよくさせていた。
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