穴が空いた日常

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パンツに穴が空いた。
位置は左横で、さほど目立たないし、機能もほとんど損なわれていない。
会社でズボン脱ぐ予定もない。
仮にズボンが爆発してパンツがあらわになったとしても、誰も気にしないレベルだ。
むしろ、そのとき気にすべきことはズボンが爆発したという事態そのものだ。
だからこのパンツはまだ現役である。

問題は「穴が空いた」という事実そのものではない。
それでもなお平然と履き続ける自分をどこまで許せるか、ということだ。
外見の整合性に対するわずかな違和感を、「誤差」として処理できるかどうか。
あるいは、無意識のうちに育まれてきた「完全であるべき」という感覚に対して、どれだけ鈍感でいられるか。

人間の適応能力は高い。
最初に小さな異物感を覚えても、それが日常に溶け込むまでにはそう時間はかからない。
このパンツの穴も、そのうち存在を忘れ、いちいち気に留めることもなくなるだろう。
わずかな違和感は、時間とともに摩耗し、いつのまにか意識の死角に沈んでいく。

ただ、こうした「慣れ」は、単なる便利さだけではない。
生活に対する注意力が、少しずつ鈍っていく兆しでもある。

スマホの割れた画面や、靴のかかとのすり減り。
小さな損傷を見逃すたび、生活の質はじわじわと下がる。
それは、たぶん気づかないほど静かに進む。

だから、本来は適応してしまう前に、どこかで線引きをするべきだ。
とはいえ、今のところ、この小さな穴については、目立った支障もなく、拒絶する理由も見当たらない。
損傷の進行が急でない限り、すぐに交換する必要はなさそうだ。

ズボンが爆発する確率について、深く考える意味はない。
今ここにある小さな鈍感さを、どこかでちゃんと意識できるか──問題はそこだけだ。

この穴も、いずれ大きくなるだろう。
そしてそのとき、どこまでそれを受け入れて履き続けるか。
それはまだわからない。

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