書類を一通、提出しなければならなかった。
メールでのやり取りなので、ちょっと書いて送れば終わるはずだった。
ところがその書類には、上司の判子が必要だった。
電子印ではない。
朱肉を使う、物理的に存在するあの円形のやつだ。
早めに声をかけた。お願いもした。
「あ、家にあるから、明日持ってくる」と言われた。
まあ、よくある話である。翌日、持ってこられなかった。
翌々日も。上司は忙しい。
部下が差し出す紙に判を押すより、世界の流れを止めないほうが先決である。
とはいえ、メールの向こうの依頼者には、そんな事情は関係ない。
締切の記載はなかったが、10日も経つと、そろそろ催促メールが来るんじゃないかという不安が募る。
案の定、「まだでしょうか?」という、よく乾いた文面のメールが届いた。
ついに判子が押された。
赤く、やや斜めに、それでも確かにそこに在った。ありがたい。
ただし、そのありがたさと、ここまでの小さな気まずさとは別の話だ。
問題は、返信メールである。
「ご連絡ありがとうございます。遅くなりまして大変申し訳ございません。」と書きかけて、手が止まった。
そのメールには、判子をくれた上司もCCで入っていた。
CCから外すこともできるが、かえって不自然だ。
だが、俺が「遅れてすみません」と書くと、あたかも「判子が遅かったからこうなったんですよ」と、上司に向けて言っているように見えないだろうか。
もちろん、そんなつもりはない。
でも文面というのは、往々にして受け取り手次第で含みを持ってしまう。
謝らなければ、それはそれで依頼者に対して不誠実だ。
でも謝ると、上司へのあてこすりのようにも見える。
どちらを選んでも、わずかに誰かの機嫌を損ねそうな、地味なトラップである。
結局、俺は「申し訳ありません、書類を提出いたします」という曖昧な言い回しでごまかした。
意味のようなものはある。謝罪のようなものでもある。だが芯はない。
書いている自分ですら、何に対して頭を下げているのかわからない。
だがそれでいいはずだ。
会社という場所は、責任を曖昧にし、誰も傷つけず、少しだけ詫びて今日もなんとか回っている。
それを俺たちは「円滑な業務」と呼んでいる。
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