自分にはたぶん一生縁のない家を、よく見ている。
もちろん内見ではない。
動画である。
広い部屋に存在感広い部屋に存在感のある家具、洗練された服。
テーブルの上には、用途のわからない小さな置物まである。
こういう暮らしの映像を見るのが好きだ。
羨ましいとは思う。
しかし、俺はこういうところに住むことはないんだろうな、とも思っている。
憧れと諦めはそれほど矛盾しない。
むしろ遠くにあるものほど安心して憧れていられる。
手に入りそうになると金額だの維持だの現実的なことを考え始めるが、遠くにあるうちは風景として眺めていればいい。
そういう家にも当然台所があって、食卓にはだいたい「ちゃんとしたもの」が並んでいる。
ちゃんとしたもの、というのも妙な言い方だが少なくとも特大のカップ焼きそば一個で一食を終わらせようという気配はない。
野菜があり、肉か魚があり、汁物まである。
緑、赤、黄色が適度に配置され、茶色だけで世界を完結させようとはしていない。
そういう食卓を見ていてあることに気づいた。
ミニトマトが半分に切ってある。
見るたびに、これはけっこうな贅沢なんじゃないかと思う
ミニトマトのありがたいところは小さいことである。
洗えばそのまま食える。
包丁もいらないし、まな板もいらない。
俺はミニトマトのかなり大きな長所がそこにあると思っている。
なのに、映像の中の人は切る。
一個ずつ、わざわざ半分にする。
せっかくミニトマト側が省いてくれた工程を、こちらから復活させているのである。
もちろん切った方がきれいだ。
赤い断面が見えるだけで、レタスの上に丸いものが転がっている状態から急に料理らしくなる。
そのためだけに包丁を出し、まな板を出し、一個ずつ切って、最後にはそれを洗う。
ただ、なんとなくきれいにするために。
この「なんとなく」のために手間をかけられる暮らしを俺はたぶん豊かだと思っている。
考えてみれば俺にだってできないことではない。
包丁もある。
まな板もある。
ミニトマトを買う金も、まあある。
それでも今後この部屋のミニトマトは丸いままだ。

コメント